「大きな物語」と「小さな物語」
まずは、あんスタにおいて個人的に重要なポイントであると考える「大きな物語」と「小さな物語」について。
「大きな物語」は、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが1979年刊行の『ポストモダンの条件』において提唱した言葉です。
今回はこれらの言葉を、社会学的見地と、物語論、二つの側面から見てゆきたいと思います。
大きな物語は例えば、人間は失楽園以来の原罪を負うが神の愛によって救済されるとする「キリスト教の物語」、労働者は搾取され貧窮へと向かうが階級闘争によって社会主義社会を実現し救われるとする「マルクス主義の物語」、貧しき社会も自由競争が神の見えざる手の導きによって経済活性化し社会の豊かさを向上していくという「資本主義の物語」などがよく挙げられます。
この物語において「個人」「自分自身」という主体性は死に「大衆」のような内実を伴わないものとして存在することとされ、その亡霊に対して語られるものが大きな物語であると言えるのではないでしょうか。
リオタールは、このような「大きな物語」に準拠していた時代を「モダン」、そしてそれに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んでいます。
あんスタのメインストーリーにおけるTrickstarによるfine討伐はまさにこの流れを組んでいるように思います。
一方、大きな物語に対して語られるのが、個々人の持つごく個人的な愛や感情に寄与した「小さな物語」です。
メインストーリー内でのTrickstarはまさにこの「小さな物語」の奇跡として描かれています。
そもそも、「再大多数の最大幸福*1」を掲げるfineが大きな物語側であること、「まだ何者でもない」Trickstarが小さな物語側であることは言うまでもありません。
英智は「再大多数の最大幸福」を心から願いそのために新骨注いで革命を行ったわけですが、メインストーリー以後に描かれる彼の姿を見ていると、英智が英智自身すら気づかないままに英智「個人」を見失っていたこと、もしくは英智が英智という個人の存在に初めて気がついたことは明らかです。
この大きな物語と小さな物語の構造は、あんスタの物語において姿を変えて何度も描かれています。
メインストーリー内で「小さな物語」として描かれたTrickstarは、他の場面では「大きな物語」として働きます。
例えばそれは、Switchとの関わり合いにおいて。